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インタビュー

社会福祉法人 杉和会 理事長

地域の困っている方を何とかする、
それが社会福祉法人の役割

社会福祉法人 杉和会
理事長
若山 宏 様

緑に囲まれた自然豊かな高台に建つ「優・悠・邑 和(ゆう・ゆう・ゆう なごみ)」。
岐阜県初の盲養護老人ホームとして今年5月に開所しました。真新しい建物には、優しい木の香り、解放感のある高い天井、絶好のロケーションを一望できる大きな窓があり、ここで暮らす方々を穏やかな気持ちにしてくれます。まさに、施設の名前のとおり、和(なごみ)です。

 

今回お話を伺ったのは、当該施設を含め岐阜県内に4つの福祉施設を展開する社会福祉法人「杉和会」の理事長・若山宏様。そして同理事の水野貴子様、当施設長の吉澤進治様にもご同席いただきました。

虚弱児だった経験が学習遅滞の子どもを救いたいという情熱へ

Q.まず若山理事長のご経歴からお聞かせください。

経歴となると生まれたときからお話ししないといけないですね。今年の5月で68歳になったのですが、生まれたときは虚弱児ですぐに熱を出していました。
小学校のときは6つ上の姉がおんぶして学校へ連れてってくれるような、ひ弱で色白でガリガリで、これは中学校でも同じで、ずっとそうでした。

 

虚弱っていうことは、学校へあまり行けないものですから、勉強もできなくて。
中学1年のゴールデンウィークが終わって学校が始まるときに3週間ぐらい入院したんです。久しぶりに学校に行ったら英語の授業が何やってるかさっぱりわからなくなってしまいました。
それで英語だけじゃなく、勉強全体が嫌になったんです。

 

それでもまぁ何とかその後大学まで進みました。大学って楽しくてね。講義が楽しいんじゃないんです。それ以外のことが楽しくて。
講義はあまり受けてなかったのですが、親父が教員だったものですから、「教員になれ」って言われましてね。教員にはなったものの、25歳のとき辞職しました。
というのも当時は旧文部省の指導要綱どおりやらないと「ダメな先生」だったんです。私はそういう先生にはなりたくないと思ってたので、ほかの先生に迷惑をかけながらやっていました。それでいつまでもこのままだともっと迷惑をかけると思って辞めました。

 

辞めて家に帰って親父に報告した途端、勘当されましてね。半年間の勘当生活のあと児童養護施設を紹介されました。
私は福祉なんて何も知らなかったのですが、小中高の教員免許を持っていたので、指導員になれますよ、ということで始めたんです。最初は全然やる気がなかったので、翌年の3月には辞めるつもりでした。

 

ところが出会う子どもたちが、いわゆる家庭崩壊の子どもですから、学習遅滞児ばかりなんですね。
全国の高校進学率98%の時代に児童養護施設の高校進学率は30%ありませんでした。能力はあるけど学習遅滞ということです。親が子供の教育に認識をもっていませんから(学力を)磨いてないですから。
私は子どもたちと接してるうちにそれに気付いて、結局26歳から38歳までいました。

 

(辞めるに至ったのは、)35歳のときに研修でアメリカに行かせてもらって、アメリカの児童福祉の世界を見てかなりカルチャーショックを受けたんです。
それでアメリカの5年後が日本に来るだろうと思って、帰ってすぐ施設を辞める、という話をしたら経営者からえらい怒られましてね。「研修言ってきたばかりで辞めるなんておかしいやないか」と。
それで「私の代わりに指導できる人を育てて辞めます」と条件を付けまして。3年かかったんですけどね。

 

アメリカでカルチャーショックを受けて私が何をやりたかったかと言うと、在宅で困ってる子どもたち、親ともども困ってる子を何とかしたい、という思いです。
何らかの形で学校に行けない子たちの個別指導を日本でやりだしたんですが、食えないんです、生活できないんですよ。

 

Q.当時の日本にはそのようなものはなかったのですか?

今もないですよ。個別はないです。施設に収容というのはあるかもしれないけども、個別指導をやって(指導する人間が)生活できるような状況っていうのは今もないですね。

 

Q.アメリカはそういった状況がすでにあったんですか?

ものすごいありました。州政府とか郡政府がやってくれるのと、援助するだけでなく、いわゆる福祉の専門職の社会的認知度がものすごく高いんです。高いってことは給料もいいんです。

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